御伽噺を運ぶ石
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月の光を十分に閉じ込めた月長石を口に含むと、深い海の中でも体が潰されることがなく、息もできるのだという御伽噺を母から聞いた記憶がどこかに残っている。そして彼女は海からやってきたのだ、と父が溜息のように漏らした記憶は忘れることもできずに確かに頭の中にある。全く非現実的なことだけれど、それでも父の言うとおりかもしれないと幼心に思ったのは、自分も母の体から微かに香る潮の香りを感じていたからだろう。
確かに領地は海に面していて、領地内はどこでも微かに潮の香りが漂っているのだけれど、母の腕の中ではその香りが一層強かった。子どもの自分から見ても、母は美しい人だった。濡れたようにしっとりとした長い黒髪は、櫛を通さなくても真っ直ぐで、瞳は深い海のように青かった。真珠のように白い肌と、作り物のように整った手足。けれどその体は温かく、視線は常に慈愛に満ちていて、何よりも父と自分、そして幼い弟を心から愛してくれた。
けれど、彼女は海の泡のように儚く消える運命だったのかもしれない。海からやってきて、そして海の泡となって消える。そういう運命だったのかもしれない。そう言ったのは、最愛の女性をあまりに早く失ってしまって、涙を我慢することのできなかった父だ。
母は海からやってきた。それは何も、彼女の容姿や雰囲気から例えて言った言葉ではなかった。確かに、母は海からやってきたのだ。父が母を見つけたのは、いま自分が歩いている砂浜だった。まだ祖父が生きていた時、父はこの浜辺を、いまの自分のようにゆったりと歩いていた。なんということはない。朝の浜辺をひとり歩くことは、父の、そして自分の毎朝の日課なのだ。まだ日も昇らないうちに屋敷を出て、丁度浜辺を歩きながら日の出を迎える。日が昇りきると、黙って屋敷へ戻っていく。それだけのことだけれど、領主として忙しく動き回る一日の中でその時だけが唯一自分だけの時間なのだ。
自分がそうであるように、父もまたこの時間を愛していた。そして父は、その大切な時間に母と出会った。出会った、と表現するのが正しいのかどうか。見つけた、と言った方がいいのかもしれない。まだ日の昇らぬ薄暗い浜辺に、母は倒れていた。青ざめた肌、そして見たことのない衣服。どこか異国の船が難破して、死体が打ち上げられたのだろうと父は思ったそうだ。実際、この浜辺にはそういう死体が一年に何度か漂着する。身元が分かれば何とか国と連絡をとって、体を家族の元へ帰してやり、身元が分からなければこの土地へたどり着いたのも何かの縁、と丁重に葬ってやるのがこの土地のきまりだ。
倒れた細い体に駆け寄った父。船が難破したのであれば、他に生存者がまだ海の上を漂流している可能性もある。貴重な自分の時間は返上して、屋敷へ戻り船を出す手配をしなければ、と彼は次期領主として当然そこまで考えた。
そしてうつ伏せに倒れていたたおやかな体を反転させたその時、父は母を見つけた。唇まで青く染まっていた彼女の体は、しかし微かに脈打っていて浅く息もしていた。長い黒髪、そして真っ白な服はすべて海の水に濡れていて。冷たいけれど弾力のある若い女性の体だった。
父は彼女を屋敷へ連れ帰った。そしてすぐに船を出させて沿岸を捜索させたけれど、難破した船や、波の上を漂流している人影は見つからなかった。数日凪が続いていたのだから、近辺で船が難破するはずもないのだ。
三年後、父は母と結婚した。領民から祝福された素晴らしい結婚式だった、と乳母から聞かされている。それはその通りで、ゆえに母の葬式で涙しない領民はいなかった。海からやってきた女性。自分の名前以外は出生について、過去について何も語らなかったという母は、けれどとても深い知性と教養を持っていた。不思議な人。誰からも疎まれることなく、むしろ産まれた時からこの土地に住んでいたかのように皆に受け入れられた。
「お父様に出会うために、私は海からやってきたのよ」
惜しげもなく夫への愛を振りまきながら、同じように自分を愛で包んでくれた母は、自らも故郷は海なのだと言って微笑んだ。月長石は何も珍しい石ではない。乳母に頼み込んで行商から買った月長石を月の光に当てて、これを口に含めば海の中で長く泳げるのだろうという幼い自分に、母は苦笑して言い聞かせた。
「海で息ができるようになるまでは、もっとずっとかかるのよ。もっとずっと長く、月の下に置いておかなくてはいけないの。だから私も、お父様に会いに来るために随分と長く月の光を集めたわ」
それは彼女が子どもに言って聞かせたただの御伽噺だったのだろうか。それだけ深く父を愛しているのだという、例え話だっただのろうか。
「堅物のお前が、いまだにそんなことで頭を悩ませているなんて意外だったな」
苦笑を隠せない顔で乳兄弟である幼馴染にそう言われたことがある。自分だってそう思う。自分らしくない、と。けれど、あの女性のことに関してだけは、理解できない御伽噺のような現実が成り立ってしまうような気がするのだ。記憶の中の女性は、時が経つにつれてますます不可思議なヴェールを纏うようになってきてしまっているのかもしれない。
父は確認するべきだった。さりさりと音を立てる砂を踏みしめ、穏やかな波音を聞きながらそう考える。浜辺に倒れた母を抱き上げたその時、少し開いた桜貝のような口を。その中に月の光を使い果たした月長石がなかったかどうか。
月長石があったら、確かに彼女は海から来たのだ。そして、もしかしたら彼女は死んだのではなく、海へ帰って行っただけなのかもしれない。
「海は好きよ。でも、私はお父様や、貴方を心から愛しているの」
だから海へは帰らない。彼女はそう言ったのだけれど、その言葉に反して海へ帰ってしまっていても、それでも生きていて欲しいと思うのはあまりに子どもじみた想いだろうか。母の体が棺に収まり、色とりどりの花と共に土の下へ埋められる光景を、自分は瞬きもせずに見ていたというのに。
つらつらとそこまで考えてから、まだ眠りに未練のあるらしい頭を軽く振って苦笑した。いまは自分だけの時間。だからこんな妄想のような思考が許されるけれど、もうこの時間も終わる。いくら父が長い戦地に赴いていて不安だからと言って、父の留守中領地を預かる自分がこんな馬鹿げた考えをいつまでも引き摺っていていいはずがない。そろそろ日が昇る。こんな夢物語は海に流して、屋敷へ戻らなければ。
そうして水平線から頭を出した日を見ると、目の前の海の色は薄闇の沈んだ青から朝日の黄金へと塗り変わる時だった。一日の中で、海が最も眩しく光る時。自然と細まる目に、ちらちらと光る波が映る。そして自分はその波間に揺れる、金糸のような細い光を見た。波の揺れるに任せて、ゆらゆらと沈みがちに揺れているそれ。
「人……か?」
迷わず海へ飛び込んだ。まだ冷たい海の水に胸まで浸かり、波を掻くようにして前へと進む。波間に浮いているそれは、まるで自分に吸い寄せられるようにしてゆっくりと近づいてきた。波の勢いで上手く自分の腕に収まった人らしきものを、必死で手繰り寄せて浜辺へと引き返す。水が腰まで下がったところで、ようやく腕の中にあるものを見やる余裕ができた。
それは確かに人だった。人形のように整った手足。濡れて重くなった衣服をまとっていても、両腕で簡単に抱えあげることの出来る体。そして日の光で金糸のように見えた亜麻色の髪。胸が高鳴ったのは何も非日常の出来事に動揺していただけではない。海からやってきた母のことを考えていた今日。その日に自分も父と同じように、波間から人を見つけるなんて、なんという皮肉だろう。
けれど何もかも父と同じ体験、というわけにはいかないようだった。浜に下ろした人は目を見張るほどの美しい顔をしていたが、両腕で感じた体は柔らかな女性のものとは違っていて、張り付いた服に透ける薄い胸はどうみても男のものだった。
手を口元に当ててみるが、これも母の時とは違って微かでも息を感じない。逡巡している暇はない。相手の顎に指を当てて押し上げ、首を後ろにそらせると薄く開いた口から直接空気を送り込んだ。一度、二度。触れた唇は陶器のように冷たかった。三度目でようやく唇がわななくような反応があった。
「しっかりしろ!」
四度目に空気を送り込んだ後、瞼が小さく痙攣したと思ったら苦しそうに咳き込んで水を吐いた。とにかく自力で息をするようになれば、後は屋敷へ連れて行くことができるだろうと思ってほっとしたのもつかの間。
「……まさか……」
水とともに口からこぼれ落ちた小さな丸い石。見間違いなどではない。それは月長石だった。彼が口に含んでいたのだ。母が語った御伽噺。それは母だけの御伽噺だと思っていたのに。震えを抑えることのできない手で、自分は潮の香りがする石を拾い上げた。心なしか、月の力を使い果たして黒ずんで見える石。そして気付く。浅い息をしている彼の衣服。それはこの国の者が着るどんな服にも似ておらず、唯一その服と同じような服を、自分は屋敷で見たことがあった。父が大切にとっていた母の服だ。彼女が浜辺に打ち上げられていた、その時に着ていたという服。その服を着た彼女の姿を、自分は一度も目にすることはなかったのだけれど。
夢と現実、御伽噺と実話が頭の中で交錯する。口に含んでいた、と決め付けるのは早計かもしれない。身に着けていた装飾品が外れただけかもしれない。現実的に考えろと叫ぶ理性に対して、強い感情はそれに反して体を突き動かす。拾い上げた月長石を、自分はそっと上着の内ポケットにしまい込んだ。
それさえ取り上げてしまえば、海に帰ることはできない。
自分とは別の意思がそう囁きかけてくるようだった。別の月長石を使おうとしても、十分に月の光を集めるためには長い年月を必要とするのだ。少なくともその間は――。
「どこにも……」
行かない。
否、行かせない。
無意識のうちに呟くと、直後にぶるりと体が震えた。体が冷えたせいだろうか。それとも、心が冷えたせいだろうか。考えてはいけない。もっと冷静に、御伽噺も母のことも忘れなければいけない。訳の分からない感情に引き摺られるなんて、自分らしくもない。まるでこの場にいるのが悪いというように再び細い体を抱き上げて、熱く脈打つ鼓動を持て余しながら浜辺を後にする。そしてこの浜辺に一番近い領民の家へと駆け込んだ。
「ライソル! 朝早くに済まない、デュールだ。開けてくれ!」
呼びかけてしばらくすると、奥で盛大に物を蹴飛ばす音が響いて、やや乱暴に戸が開かれた。
「若様? 何事ですか!」
顔を出したライソルは、この土地の男の半数がそうであるように漁師だった。四十を過ぎて独身を通しているため、変わり者と呼ばれることもあるがそれも周囲からの信頼と愛情の証のようなものだった。中肉中背、少し腹が出ているが、船での仕事は昔と変わらずやってのける。そんな男は、早朝からずぶ濡れで訪問してきた領主の息子に当然のように驚愕した。ライソルの、多分体を拭くものを持って来ようとする体を視線で止めて、早口で用件だけを告げる。
「船を出してくれ。漂流者をひとり見つけた。もしかしたら他にもいるかもしれない。捜索を頼む」
捜索しても、何も見つからないだろうという予感はしていた。いや、むしろ“何も見つかって欲しくない”とさえ思った。だがそれをはっきりと自覚することは許せなかった。何より自分自身が。
「……わ、分かりやした」
彼に言えば、すぐに漁師仲間に――殆どの者が早朝の漁を終えて港にいる時間だ――声をかけて船を出してくれるだろうと踏んでのことだ。
「一度屋敷に戻ったら、すぐに俺も出る。先に行って、皆に声をかけておいてくれないか」
そこでようやくライソルがこちらの腕に抱えられているぐったりとした人間を見て息を呑んだ。この土地では滅多に見かけることのない亜麻色の髪に、彼の瞳は正直に戸惑いに揺れたけれど、こちらが急ぐように強く促そうとする前に我に返ったライソルは戸口に引っ掛けてあった上着を手にして答えた。
「はい、すぐに!」
「頼んだ」
言葉どおりすぐに家に鍵をかけて港へと向かおうとするライソルに短く言い残すと、冷たい体を両腕で持ち上げたまま、自分は屋敷へ向かって再び走り出した。自分の体温を吸って、触れている部分からじわりと温かくなっていく相手の体に覚えた感情は、喜びだろうか。
母を見つけた時、父はこの人を離すまいと思ったそうだ。どこからやってきた人間でも構わない。帰る家があろうとなかろうと。目が覚めたら、この土地を見せてこの土地を愛してもらって、この土地にいたいと、そう言わせるつもりだった、と。母は父の望みどおり、この土地を愛し、父から離れることはなかった。
そうして二人は幸せに暮らしました。
そんな言葉で終わる御伽噺を運んできたのは、夢のように霞んだ色をした月の欠片。そしていま、腕の中で夢に彷徨う人は、月の石と共にどんな御伽噺を自分に運んできたのだろうか。
この人を離すまい――。
せめて御伽噺の真相か、結末が分かるまでは。